その10 広州へ
2007年のゴールデンウィーク明けに9月の広州の展示会の準備を本格的に開始してからは、文字どおり不眠不休の体制となった。この間、3度ほど広州に事前準備というか調査に行った。主催者である広東省政府からはろくに出展者向けの情報提供がなく、このままでは日本パビリオンをまとめるのが困難であったためである(後日談として、出展者向けマニュアルは中国側から10日ほど前に届けられた笑)。会場は、新しく広州交易会会場として、琵州に作られていた巨大な会場であった。日本最大のビッグサイトが10万平米そこそこであるが、この琵州の展示会場はたしか30万平米を超える計画で、半分の第1期が完成していただけっであったが、すでにビッグサイトを上回るアジア最大の展示会場になりつつあった。たまたま訪問した時に、広州交易会が開催されていたが、たしか記念すべき100回目とかで、出展者総入れ替えを2回やる(今では3回とか)桁外れの大きな展示会であった。中国はでかい。その会場に何度も足を運び、ジャパンパビリオンのオペレーションに必要な情報を収集した。
ジェトロの全中国事務所や地方事務所、そして本部のスタッフ達の働きでなんとか開催にこぎつけた。地元日本語を学んでいる大学生が中国政府を通じてボランティアとして召集され、手伝ってくれた。その数、230名。10名ごとに班長をおいて、意思疎通を図った。2万平米のジャパンパビリオン(日本館)は二つのホールにわかれるので、ジェトロスタッフも2班にわけた。北は北京から、大連、上海、青島、広州、香港の駐在員や現地採用の中国人スタッフがかけつけ総勢20名を超える現地事務局ができた。なかでも、I次長引きいる広州事務所は鉄壁のチームワークでこの巨大プロジェクトをホストした。私も3週間前に広州に乗り込んでから展示会が終了するまで、一切休まず、陣頭指揮にあたった。ジェトロは500社を超える日本館の出展者から毎日、商談の結果をアンケートの形で集めるのであるが、230名の通訳の組織を使い、全企業から1枚も欠かさず集めることができた。数日間の商談件数の総数が24000件となり、最初はおつきあいでと言っていた日系企業からは、思わぬ新規開拓が出来たと大変喜んでもらえた。
この時ばかりは、ジェトロの海外における展示会開催のノウハウや、ネットワークがいかにすごいかということも改めて感じた。さすがに国費を投入して、世界各国に70カ所、日本国内に30カ所も事務所を置き、戦後すぐから日本の貿易や投資を後押ししてきただけはある。広州事務所の働きは、地元広東省の幹部にも一目を置かれ、進出日系企業の問題解決にも、ジェトロが地元政府への発言力を持つことになり、その後、大いに日系企業のためになったと聞く。