その4 マレーシアへ
ジェトロの人事アンケートには、フランス語研修希望なんてのを出していましたが、ベトナムに2年がかりで3ヶ月くらい出張させてもらい、すっかりベトナム、アジアに魅せられてしまいました。そして、くだんの一般見本市課に、Nさんがジャカルタから帰国され、配属されます。Nさんは豪傑な方で、私の尊敬する先輩の一人です。そんな先輩からも多くの面白おかしいアジアの話を聞くにつれ、「転勤があるなら東南アジア」と希望するようになりました。
入社3年目の4月ごろだったかと思います。課長から呼び出しがありました「君、マレーシアに研修の話があるが行くか?」と言われました。その当時、マレーシアの知識はあまりなく、東南アジアであることは間違いないな、と思いその場で「はい」と返事をしたように思います。その後、自分の席に戻って、地図帳を開き、シンガポールの北、タイの南ということを確認しまた(笑)それくらいの知識でしたが、マハティール首相の名前、天然ゴムという言葉は覚えていました。
そんなこんなでマレーシアへ、1995年の7月です。私が降り立ったのはスバン空港、やや小ぶりな空港でしたが、ベトナムよりはうんと進んだ国だなと思いました。現在、KLCCにそびえ立つツインタワーは半分くらいの高さでした。まだ国民車プロトンが全盛のころでした。
私は本当に幸運にも語学研修生として、マラヤ大学で受講し、オフィスにも顔を出して、仕事を手伝うという2年を過ごさせていただきました。
最初は家賃数万円くらいのアパートに暮らしましたが、これでは面白くないと思い、学生寮に住むことにしました。2人部屋なのですが、私が小さなテレビを持ちこんだおかげで、いつも10人くらいいたように思います。マレーシアはイギリスがいたころに、中国人とインド人が大量に流入しており(これは旧英領では本当によくあることですが)他民族国家です。当時は、中国系が3割、インド系が1割、そして5割強のマレー人という構成ですが、イスラム教徒で平和的なマレー人は過半をしめているために政治的には力を持っていましたが、経済的には中国系やインド系に遅れをとっており、ブミプトラ政策ということで、優遇されていました。国立大学の入学枠もそうで、国立マラヤ大学の構内はほぼ、イスラム教徒であるマレー系の学生で占められていました。私が住んでいた寮のとなりにもモスクがあり、早朝や夕刻、お祈りの時間になると、アザンが聞こえてきて、厳かというか賑やかというか、そんな体験をさせてもらいました。
マレーシアは赤道直下の国で、ほぼ年間の気温が一定です。季節感もなく、大地も豊かです。そのような中で平和に暮らしていたマレー人ですが、アラブかインドかの商人がイスラム教を持ち込むわけですね。私は、寮で一緒に断食に付き合ったりしてみたこともありますが、やはり熱帯のあの気候で、日々のお祈りの時間だけは、厳かな時間が流れ、なんというか、生活を規則正しくリズム感良く区切ってくれます。そして、イスラムというととかくテロや暴力を連想するかもしれませんが、私はあの寮で一緒に暮らした、穏やかで、面白おかしく、勉強熱心な若者たちの顔を思い出し、決してイスラム教徒がすべからく暴力的でないということを身を持って経験しました。私にとって、本当にかけがえのない経験だったと思います